2019年02月21日

真田幸村ゆかりの上田城 匿名で10億円寄付「復元に役立てて」上田城の桜スケッチ


上田城の櫓、10億円寄付で復元目指すが資料が足りない。


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(上田城跡公園の桜満開の頃のー2015年4月スケッチ)

長野県上田市にある上田城といえば、NHK大河ドラマ『真田丸』にも登場した難攻不落の名城。匿名の市民から「櫓の復元費用に使って欲しい」と10億円の寄付があった。

しかし、櫓の復元には高いハードルが残されている。明治時代に移転・解体されるまでの資料がほとんど残ってないという。

上田城は、戦国大名の真田昌幸によって築城され、2度にわたって徳川軍を退けたことから、難攻不落の城として知られている。
天守はなかったものの、西櫓と、買い戻しされた北櫓、南櫓の3つのみが現存している。

櫓を復元するための資料を募集中

10億円あれば、2つの櫓の復元には十分なようにもみえるが、すんなりといかないのには理由がある。
文化庁では2015年から「歴史的建造物の復元」に基準を設けていて、当時に存在したものが図面などの根拠をもって忠実に復元できない場合、工事が認められないという方針を示している。

復元に必要な写真や設計図が不足しているという。
このままでは文化庁の基準を満たさず、復元は難しい。

上田市教委では「10億円の寄付金が全国的なニュースになったことで、些細なことでも構いません」として、以下の情報を公式サイトで募集しているそうです。

櫓が写っている古い写真(明治初期)
・櫓の高さが書き込まれた絵図
・櫓の立面図
・上田城跡内で撮影した写真(明治末期まで)
・櫓などの建物の移転先についての情報








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2019年02月15日

水彩画風スケッチ・西国の山城・徳島吉野川市「川島城」・模擬天守閣





水彩画風スケッチ・西国の山城・徳島吉野川市「川島城」・模擬天守閣


吉野川市にある阿波川島駅付近のうどんのお店

世間に意外と知られていないのが阿波「川島城」。阿波国(徳島県)の初代藩主である蜂須賀家政が設けた9つの支城「阿波九城」のうちの1つで、戦国時代に土地の豪族・川島兵衛之進が築城したと伝えられる。川島城を中心とした「城山」一帯には、遊歩道、展望台などが整備され、レクリエーションの場や桜の名所としても知られている。


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吉野川に臨む要害堅固な城

吉野川沿いの中世の山城跡で、阿波九城の1つとして、天正13(1585)年に蜂須賀家政の入国後、寛永15年の「一国一城令」により廃城となる。昭和56(1981)年、「勤労者野外活動施設」として城郭型に復元されたのが現在の「川島城」。


現在の「模擬天守は国の特殊法人「勤労者野外活動施設」として、旧川島町により約2億円で、二の丸跡に観光用に模擬天守閣(レストハウス川島城)が建設された。内部はレストラン等の観光施設になっている。当初は川島町が設置した財団法人が運営していたが、2004年(平成16年)の合併で吉野川市が引き継ぎ、指定管理者制度を導入して財団法人や民間事業者に委託してきたが、2010年(平成22年)度からは再び吉野川市が運営している。

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2019年02月05日

謎多き智将・明智光秀ゆかりの京都・福知山城






謎多き智将、明智光秀ゆかりの京都・福知山城

主君を討った“逆臣”か、領民が慕った“名君”か、戦国武将、明智光秀。

明智光秀は智将文化人愛妻家三日天下と謎も多い。美濃(現・岐阜県)出身との説が有力だが、詳しい出生地や生年はわかっていない。
丹波攻略の拠点として1577年頃に築かれたのが、「丹波亀山城」で、続く西国攻略の拠点として「福知山城を築く。1579年、光秀は5年をかけて丹波を平定。その働きに対し、信長は家臣に当てた書状で「天下の面目をほどこし候」と賞賛している。
光秀は福知山では城下町を整備し、丹波亀山では近隣の村人を呼び寄せて城下町を作った。しかし、その2年後に「本能寺の変」を起こす。その動機は未だ謎といわれる。

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(京都・福知山城)

2020年大河ドラマ麒麟がくるで描かれる明智光秀

 美濃出身とされ、生年は不明。足利義昭に仕えた後、織田家の重臣に。1579年丹波平定。1582年京・本能寺で信長を討つ。11日後、『山崎の合戦』で羽柴秀吉に敗れる。側室を置かず、正室・熙子(ひろこ)だけを愛した。三女・細川ガラシャ=細川忠興
の妻。明智光秀の娘。ガラシャは洗礼名。キリスト教に改宗。関ヶ原の戦いに際し、石田三成に反抗して自殺。)は盟友・細川幽斎の嫡男・忠興に嫁ぐ。

細川忠興の正室・細川ガラシャは、戦国時代の美女の1人、美女の辞世の句
散りぬべき時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ

明智光秀を歌った『詩吟・本能寺』

  • 本能寺  < ョ山陽 >
  • 本能寺 溝の深さ 幾尺なるぞ
  • 吾れ大事を就すは 今夕に在り
  • 茭粽手に在り 茭を併せて食ろう
  • 四簷の梅雨 天墨の如し
  • 老阪西に去れば 備中の道
  • 鞭を揚げて東を指させば 天猶早し
  • 吾が敵は正に 本能寺に在り
  • 敵は備中に在り 汝能く備えよ


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2018年12月29日

BS プレミアム 鉄道旅 岡山・倉敷で放映・備中松山城スケッチ






BSプレミアム、鉄道旅、岡山・倉敷で放映「備中松山城」スケッチ


ニッポンぶらり鉄道旅  “ぼっけえ好き!”を探してJR山陽本線・伯備線・姫新線


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        (岩盤の上に建つ、天空の山城・備中松山城)


全国の鉄道に乗って日本の魅力を再発見する『ニッポンぶらり鉄道旅』。

俳優の竹下健人さんがJR山陽本線・伯備線・姫新線に乗り、“ぼっけえ好き!”を探す。

「ぼっけえ」とは岡山弁で「すごい」という意味。


倉敷の大原美術館で出会った若い画家、雲海に浮かぶ山城・備中松山城、スリル満点の洞窟探検。


【 備中松山城 】


岩盤の上に建つという珍しい山城。全国で最も高い所にある山城として「国の重要文化財」に指定されている。鎌倉時代中期に建てられ、現在の城郭は、1683年に修築された。

雲海に浮かぶ天空の山城「備中松山城」。岡山県高梁市にあり、江戸時代から残る現存天守12城のひとつで、「日本三大山城」にも数えられ、現存天守が雲海に浮かび上がる姿が幻想的で美しい


雲海に浮かぶ備中松山城を望む展望台

雲海が発生する時期は、9月下旬〜4月上旬の明け方から午前8時頃。特に10月下旬〜12月上旬の早朝には濃い朝霧が期待できる。

雲海に浮かんだ備中松山城の姿は幻想的で、だれもが写真に撮りたいと思うおすすめスポット。



“ つわものどもが  夢の跡 ”

標高430mの臥牛山頂上付近に建つ天守は、国の重要文化財で、現存天守を持つ山城としては最も高い所にあり、登城坂の周囲は、高さ10m以上の巨大で切り立った岩壁がそびえ、つわものたちが舌を巻いた”難攻不落の名城”の面影をうかがい知ることができる。白い漆喰塗りの壁と黒い腰板のコントラスト、空の青に映える美しい天守。秋には大手門付近の木々が紅葉する景色は圧巻です。


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2018年09月24日

日本の城スケッチ・幕末は「鳥羽伏見の戦い」、戦国の世は豊臣秀吉の「伏見城」

日本の城スケッチ、戦国の世といえば伏見城、三度に渡って築城され、最初の城は豊臣秀吉隠居後の住まいとするため「伏見指月」に建設を始めた。


幕末はといえば「鳥羽伏見の戦い


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  (京都伏見といえば、豊臣秀吉の隠居城・伏見城)


戦国の世といえば「関ヶ原の戦い」となる約3ヶ月前の1600年7月、伏見城に4万とも言われる大軍が押し寄せ「伏見城の戦い」となった。

石田三成徳川家康討つために蜂起し、その趣旨に賛同した西軍はまず畿内の徳川勢力の駆逐を考えた。

攻め手は宇喜多秀家を総大将に、小早川秀秋が副将を務め、毛利秀元、吉川秀家、小西行長、長曾我部盛親、などそうそうたるメンバーで、のちに起こる「関ヶ原の戦い」の前哨戦としてはかなり大きな合戦となったのが、この「伏見城の戦い」である。


幕末といえば、「鳥羽伏見の戦い」から「戊辰戦争」


慶応4年(1868)1月3日〜6日(1月27日〜30日)、「戊辰戦争」の緒戦となった戦闘。

慶応3年(1867)10月14日、徳川慶喜は「大政奉還」を建白、しかし慶喜は天皇の下で諸侯会議の首班になる構想を持っていた。これに対し薩摩藩など倒幕派は12月9日に「王政復古」の大号令を発し、徳川慶喜に領地や武器の返納を要求したが、松平春嶽らが慶喜を擁護していた為、薩摩の思うようには進まなかった。


この頃江戸では薩摩藩が旧幕府に対して挑発的な行為を繰り返していたが、これを取り締まろうとしていた庄内藩等が12月25日、遂に江戸薩摩藩邸を襲撃し焼討するという事件へと発展する。この報が大坂城の旧幕府幹部に伝わり、旧幕府は朝廷へ討薩を上表し、慶応4年(1868)京へ向けて進軍を開始する。旧幕府軍主力の幕府歩兵隊は「鳥羽」へ、会津藩・桑名藩の藩兵及び新選組などは「伏見」へと進んだ。兵力数で勝る旧幕府軍であったが、各地で苦戦する。


1月6日夜、慶喜が大坂より江戸へ退却すると旧幕府諸藩も各自領へと撤退した。7日には岩倉具視の策もあり、朝廷より「慶喜追討令」がだされ、旧幕府は「朝敵とされた。これにより多くの藩が旧幕府を見限ることとなるが、最後まで旧幕府として戦うもの達と新政府の間でこの後、「上野戦争」「北越戦争」「会津戦争」「箱館戦争」と戦地は北上して「戊辰戦争」が展開してゆく


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2018年09月19日

水彩画風スケッチ・名古屋城本丸御殿・完成公開





水彩画風スケッチ、名古屋城本丸御殿、完成公開中


名古屋城本丸御殿、2018年6月に完成し公開中。空襲で焼失したかつての「国宝」を復元江戸幕府将軍が宿泊するために建造された最も豪華絢爛な「上洛殿」や「湯殿書院」などを公開している。


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名古屋城本丸御殿は、尾張藩主の住居・藩の政庁として1615年(慶長20年)に徳川家康の命によって建てられた。1930年(昭和5年)に天守閣とともに城郭として初めて国宝に指定されたが、1945年(昭和20年)の空襲により建物の大部分を焼失。2009年から復元工事が始まり、2018年の6月8日に完成公開を迎えた。


名古屋城本丸御殿は、金のシャチホコでおなじみの「天守閣」と時を同じくして江戸幕府初代将軍・徳川家康の命を受けて作られたもので、
その最初の用途は、家康の9男で、初代尾張藩主となる徳川義直の住居としての建物であった。
しかし義直は結局5年間ほど住んだだけで、その後本丸御殿は江戸の将軍が京都に上洛する際に宿泊する場所として利用され、1634年に三代将軍・徳川家光の上洛の際には豪華な「上洛殿」が増築された。

1945年、太平洋戦争での空襲によって本丸御殿は天守閣とともに全焼し、1959年に天守閣は鉄筋コンクリート造にて再建されたが、本丸御殿は、2009年に江戸時代の記録や昭和に作成された実測図、古い写真といった史料をもとにようやく正確な復元工事に着手し、2018年公開となったもので、その贅を尽くした絢爛豪華さは、凄まじいものがありそう。

水彩画風スケッチ、名古屋城本丸御殿、完成公開中です。

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2018年08月07日

水彩画風スケッチ・日本の世界遺産建築物ベスト25の9位・京都二条城・東南隅櫓






水彩画風スケッチ、日本の「世界遺産建築物」ベスト25の9位・京都二条城東南隅櫓(とうなんすみやぐら)


【 徳川家の栄枯盛衰二条城 】


京都が誇る「世界遺産二条城」は1603年(慶長8年)に徳川家康が上洛した際の宿泊所として築城され、徳川幕府の終わりを告げる徳川慶喜の「大政奉還」が表明された場所。


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二条城の東南隅櫓は、1602年(慶長7年)から1603年(慶長8年)に造られ、1625年(寛永2年)から1626年(寛永3年)に改修された。

二条城には寛永期に建てられた隅櫓が本来四隅にあったが、1788年(天明8年)に起きた大火によってそのうちのふたつが焼失してしまい、現在はこの東南隅櫓西南隅櫓が残っているだけとなっていて、国の重要文化財に指定されている。


東南隅櫓の特徴は、出窓に「石落とし」を設け、格子窓を「矢狭間」(やざま城壁や櫓[やぐら]などにあけた、矢を射るための穴)として使用し、横矢を掛けられるように出窓を張り出たせている。鴨居に竹釘が並んでいるのは火縄銃の火縄を掛けるためで、かつてこの櫓が「鉄砲倉」と呼ばれていたことからも、戦闘に備えた櫓だった。

「層塔型」なので通柱はなく、2階は1階よりひと回り小さい構造となっていて、1階から見上げると、武者走り廊下)の中央に2階の柱が載る土台が確認できた。


天守の形、「望楼型」と「層塔型


「望楼型」というのは、上層部と下層部の形が違っていて、具体的には入母屋造の下層部の上に、物見櫓(ちいさな望楼)が乗っているようなスタイルの天守で、三角形の破風ができ、望楼というだけにかなり豪華。

これに対し、「層塔型」は下から上までほぼ一体的な形をしていて、お寺の五重塔のような感じで、上に行くにつれて平面規模が逓減(ていげん=少しずつ小さくなること、逓減率)、最上重の屋根だけを入母屋造としていて、シンプルに見える。


水彩画風スケッチ、日本の「世界遺産建築物」ベスト25の9位・京都二条城東南隅櫓です。


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2018年07月21日

水彩画風スケッチ・日本の世界遺産建築物ベスト25の15位・姫路城






水彩画風スケッチ、日本の「世界遺産建築物」ベスト25の15位「姫路城」


 日本で初めて世界遺産に登録された建築物

木造建築の最高傑作といわれた姫路城、 大天守は1609年 完成

姫路城の主要な建造物は木造

世界遺産に登録されている世界各地の城の多くは石造りやレンガ造なのに対し、姫路城は濠や石垣をのぞき主要な建造物は木造

奇跡的に保存されてきた姫路城

姫路城は長い歴史の中で戦いや火災に巻き込まれず、明治以降は新政府によって各地の城郭が取り壊されるなか、城内に保存されてきた。昭和以降は昭和4年(1929年)に「国の史跡」に、昭和6年(1931年)には「国宝」に指定され、終戦間際の空襲も奇跡的に免れ、「昭和の大修理」(昭和31年〜39年)を経て築城時のままの姿に復元された。


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         (平成の大修理を終え、漆喰で真っ白に見える姫路城)



天を舞う白鷺のように見える姫路城は別名白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう)ともいわれ、 建築技術の粋を極めた傑作として、平成5年(1993年) 法隆寺とともに「日本で初の世界文化遺産」に指定された。

現在の姫路城は、徳川家康の次女督姫を妻とする池田輝政により建てられたもので、関ヶ原の戦いの翌年にあたる慶長6年(1601年)から8年の歳月が費やされた。それまで羽柴秀吉がその20年前に建てた三層の姫路城が建っていたがこの城を取り壊して、5層7階の天守となった。

姫路城には数々の物語が残っており、聡明で美しい姫といわれた徳川家康の孫娘である「千姫の物語」や、「宮本武蔵の妖怪退治」、「播州皿屋敷お菊井戸」など建築以外にも多くの物語の舞台となった。

【世界遺産】姫路城「平成の大修理」に期間5年半!費用28億円、職人15000人とか

大天守は2009年(平成21年)から大規模な改修工事「平成の大修理」が行われた。

工事期間は2015年(平成27年)3月までの約5年半で、事業費は約28億円だったとか。外壁の漆喰(しっくい)の塗り替えや屋根瓦のふき替え、耐震性を高める補強も行われた。「昭和の大修理」から既に50年近く経過して、かなり痛んでいたようです。

修理前と比べて特に屋根が白っぽく見えます。これは瓦と瓦の継ぎ目の「漆喰」が真っ白なので、遠くからだと屋根全体が白く見えます。しかし数年後には漆喰がカビなどの影響で黒ずみ、屋根も以前のような見え方に戻るそうです。

水彩画風スケッチ、日本の「世界遺産建築物」ベスト25の15位「姫路城」です


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2018年06月21日

豊臣秀吉の居城・京都伏見城スケッチ・大阪北部地震 近くに慶長伏見地震の断層

豊臣秀吉の居城・京都「伏見城」スケッチ、「大阪北部地震近くに慶長伏見地震の断層あり。


伏見城


指月(しづき)に築かれた伏見城は築城開始から2年後の1594年(文禄3年)に秀吉が入城し、更にその2年後の1596年(文禄5年)に完成をみるが、その直後に「慶長伏見地震」によって倒壊した。このため、指月から北東約1kmの木幡山(こはたやま)に新たな城が築き直されることになり、翌1597年(慶長2年)に完成した。しかし、秀吉はその1年後の1598年(慶長3年)に城内で没した。後に、徳川家康が伏見城を建て直したとか。


大阪北部地震近くに​「慶長伏見地震の断層


大阪府北部で発生した地震(6月18日午前7時58分、M6・1)の震源周辺には、1596年に「慶長伏見地震(M7・5)」を引き起こしたと推定される断層帯がある。気象庁は、周辺の活断層などで大きな地震が発生する可能性は否定できず、その場合には震度6強以上の強い揺れが予想されるとしている。


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               (伏見城・模擬天守)

     


「慶長伏見地震」は、文禄5年7月13日(1596年)子の刻山城国伏見(現・京都府京都市伏見区)付近で発生した大地震で、慶長伏見大地震とも呼称される。

慶長伏見地震では、伏見城の天守が大破し石垣が崩れて約500人が圧死。寺や家屋の倒壊も多く、多数の死傷者が出た。堺で600人余りの死者が出たほか、奈良、大阪、神戸でも被害が多かったという。余震は約半年間も続いたそうです。

今回の大阪北部地震では、周辺断層帯に新たなひずみができて、まだまだマグニチュード7.0〜7.5の地震が起きる可能性があると、東北大学の教授が今日発表したようです。まさに慶長伏見地震の規模です。

「大阪北部地震」近くに慶長伏見地震の断層あり、豊臣秀吉の居城・京都伏見城スケッチです。





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2018年06月07日

水彩画風スケッチ・陸奥ひとり旅・弘前城・二の丸


水彩画風スケッチ、陸奥ひとり旅・弘前城・二の丸東門です。


陸奥ひとり旅、いつぞやの真夏の暑い日に汗を拭きふき訪れた弘前城・東門です。弘前城公園の広い参道も、セミの鳴き声で喧しいぐらいの大合唱で、東北地方も夏真っ盛りでした。参道の片隅には、懐かしいアイスキャンデー屋さんが、客寄せしていたのが印象的でした。







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弘前城二の丸


建築年代を示す明確な資料はなく、江戸時代初期と考えられていて、木部をあらわし古式を伝える遺構である。各門は、枡形(ますがた=道を二度直角に曲げ、外敵が進入しにくいようにしたもの)を構成する土塁に囲まれ、雪を考慮してか下階の屋根をひときわ高く作るなど、配置や構造に工夫がなされている。  
 
【弘前城二の丸東門与力番所】
「与力番所」は、城門の内側などに配置され、枡形内に置かれた「辻番所」とともに、主要な出入口を監視する詰所として造られた建物である。城内の絵図によれば、城門内のほか7ヵ所に設けられている。
この建物の建築年代は不明であるが、柱などに書かれた墨書が三の丸東門のものと非常に似ているのに対し、全体の雰囲気が江戸時代中期の様相を呈していることから、江戸時代初期に建てられたものがその後大改造を受けたか、古材を使って中期に建てられたものと推定される。
現在の緑の相談所付近に残されていたものを、昭和53年から3年をかけ現在地に移築したもので、弘前城の番所としては唯一の遺構である。

春の桜の季節には大勢の観光客が訪れることで知られる弘前城。

水彩画風スケッチ、陸奥ひとり旅・弘前城・二の丸東門です。






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